2008/09/30

上海で会った彼

感情と記憶が風化しないように記す。

彼とは2006年3月に学生時代を締めくくる卒業旅行で中国を旅行した時、上海・外灘のユースホステルで出会った。
最初、旅慣れたヒッピーっぽい日本人のにぃちゃんが居るなぁと思っていた。色は黒く、髪は括ってフレームの細いスタンダードな黒ぶち眼鏡をかけ、Tシャツにちょっと破れたストレートの埃がかったブルーデニムを穿いていた。自分以上にコテコテ、というよりも大阪市内で話される大阪弁を話していた。事実、大阪市内在住の自分より4歳程下の“彼”であった。

彼とは、他に居たゲストハウスの日本人と共に2日間くらい、普通に晩飯を食って飲んだりした。でも彼とは特に夜中によく話した。話をする内に無限の広がりがある時間を過ごしている気分になった。世界の事、人間の事、そんな本質的で根源的な話ばかりしていた。

夜中ビールを買いに行く時、敢えて中国系のコンビニに行って、サービス精神の無さが共産主義に起因していることを、同じく上海市内にある日系のローソンと比較して議論してみたり。

彼は旅から多くを学んでいたので、そもそも社会主義体制を敷いているキューバの街中や人はどんな様子か、彼がすばらしい国(素晴らしい湖がある)と称するグァテマラの話など多く聞いた。危険な話も聞いた。また、彼が自分と会う数日前に中国の雲南で軟禁にあって身ぐるみを剥がされた話も具体的に聞いた。その時の悪人の様子や連携プレーはどのようなものだったか。リアルで面白かった。金がなくなったので、上海から大阪までは船で帰ると言っていた。

その時自分自身は、河合隼雄の精神世界、立花隆の脳科学、茂木健一が提唱するクオリアについて興味を持っていた時期だったので、そんな話をしていくつかの本を紹介した。

僕は彼の事を世の中の形式ばった事は分かっている訳じゃないけど、生きて行く上で本質的なものを掴みきっているような感じがした。とても抽象的だけどそんな印象を持った。だからこそ、彼がどんな人間になるのか楽しみだった。間違いなく社会の枠にとらわれる事なく、生きて行くのだろうと思っていた。

帰国後3週間後くらいの3月下旬に学生時代の締めくくりとして自分が開催した大阪・中崎町の写真展にもふらっと顔を出してくれた。それ以降彼の近況はSNS上で確認していた。連絡等は特にしないが、相変わらず自由で生きているなぁと刺激をもらっていた。

そして、つい最近の日曜の朝、大阪から東京に戻ってネットを付けた時、SNS上で彼のお姉さんから、彼が亡くなったとの連絡があった。事故で。報告の文字がとても重かった。

9月の頭に自分が休みで大阪に帰った時、何故か無性に彼に会いたいと思っていた。彼は無限の可能性を感じさせる何かを持っているので、久々にどんな事を考えて過ごしているのか知りたいと思っていた。未知なる価値観を吸収したいがために会いたい友達は、自分の中でもそうはいない。でも結局会えず、次に大阪に帰ってくる時に会おうと思った。そして上記事実。後悔はあったが、全てを受け入れるしかない。

あまり死について長々と書くつもりはないが、身近な事象である事を改めて感じた。
彼のお姉さんから、彼が旅先で会った写真家に影響を受けて写真をし始め、その写真家が自分ではないかとの連絡を頂いた。もし自分であればそれはとても嬉しい事。

人の人生に良い影響を与えられる人間になりたい。