2005/10/30

記録的な写真より旅を振り返る





 学祭ではカラー作品を出そうと考えているが、モノクロに関しても年度末に計画している展覧会との兼ね合いも考えて作品化していこうかと。

 ここでは記録的な写真(まぁただの旅行写真やけど)として、2005年9月1日南米最初の訪問地リマのホステル、Flying Dog Backpackersで出会ったファンキーなやつら。イギリス、スイス、カナダ、オーストラリア、イタリア、ドイツ、スペイン、フィンランド、地元のペルーGUYS。ほんと色んな所から来てるなーと思った。だいたい自分と同年代。
 
 旅のはじまりとして、とても良い時間を過ごした。だれかれともなく酒を飲もうという話になって、皆が乗り気。少なくとも南米に旅に来ているというだけで、かなり大きな共通点。話題はいくらでもある。お互いの旅に関して興味があるし、他国のことについても興味がある。また、政情不安定なボリビア等の国家状況を実際に行った人の生の情報を得る事ができる。実際に外務省が出している海外安全情報等はリスクが強調されすぎている感があるし、その部分だけ見ると誰でも恐怖感が先行してしまう。しかしその情報は大変参考になるのも事実。現にボリビア南部でデモによる道路封鎖も見事に体験した。その時は外務省の情報にあったなと思い、状況の理解は早かったが、それでも誰一人観光客がいない状況では結構焦った。現地の旅行者と仲良くなっていたからなんとか彼らのサポートで抜けきる事ができた(過去の記事3段落目参照)。

僕自身当初はボリビアに行く予定はなく、このパーティで話したドイツからの女性の話を聞いてボリビア行くかもーって思った。話してくれたボリビアの話は特に良い事ではなかったが、未知数の多い国が明らかになっていく事で興味が増していくのを感じた。旅中はこのようにリアルな話を自分に蓄積し、その中から自分の考えとすり合わせながら行く先を決めていたように思う。まぁこの夜はかなり酔っ払っていたので、あまりどんな事を話していたか忘れたが、かなり楽しかったという記憶だけはある。
皆に他の写真含め添付メールしてあげよう思う。

2005/10/29

暗室にて 

 先日修士論文の中間発表があり、それまでは結構バタバタしていたように思うが、ある先生からお褒めの言葉を頂くなどいい形で終える事ができたので、さらにやる気アップで次のステップに進めそう。

 という事で研究に対するやる気はあるとは言いつつも、節目の後はゆとりを持ちたいので昨日の晩から暗室に篭って写真を焼く事にした。結局寝る間も含めて今日の夕方まで部室に居た。合計8時間くらい暗室に篭っていたと思う。焼いたのは南米のモノクロ。ネガ現像は帰国後すぐにやっていたので今回はプリントのみ。今回の南米旅行でモノクロは14本撮っており、一日やそこらでネガの段階で印象的なもの全てをプリントする事は不可能と思っていたので、旅中に知り合った人へ送るものを優先的にプリントした。

 視界が黒98%赤2%の暗室で印画紙に像を焼き付けて、現像液に浸し、像が浮かび上がってくるのを眺めていると同時に、その像の時空間を存在していた自分の五感が蘇ってくる。完全に定着させ、作品として出来上がったものから受ける記憶の回復よりも、プリント最中の方が鮮明に当時の五感を復元することができる。なぜだかわからないが、あのほぼ真っ暗な空間(暗室)で水洗の音と調和してリラックスした音楽を耳に入れ、プリントの完成を願いながら印画紙を現像液に浸している最中に、当時を思い出したいという自身のプログラムが本能的に始動しているからかもしれない。プリント作業への集中力が高まっている時間だと思う(ちなみに昨日最高に集中できた曲はWalts for Debby/Bill Evans Trio)。
 正直、暗室から出て六甲の山を下るとき、素晴らしくいい景色に毎回感動しながらも、テスト後のような何か物凄く集中した後の感覚がある。今回もそうだった。

ともあれ、今回の旅ではいい感じのモノクロ作品がたくさんできそう。そんな気がする。ネガも良い状態で仕上がってるので、プリントで色々ためす事ができそうや。

2005/10/16

写真『ウユニ塩湖』





2005年9月11日、今から一ヶ月程前、写真にあるボリビアのウユニ塩湖(salar de Uyuni)に僕は居た。そこは標高3600mにあり、琵琶湖の約12倍の面積で一面が塩の湖。塩の湖と聞くと、中東にある死海をイメージする人も居るかと思われるが、水分はなく塩オンリーの砂漠だ。スキー場の雪が全て塩になった感じ。なので、昼夜の気温差は激しくおそらく僕の感覚では昼間は15度くらいあり、夜は0度近く(もしくはそれ以下)になってるんじゃないかと思うくらい寒い。
というのもラパスからウユニに来る途中のバス(ラパスからウユニまで約9時間)ではこの塩湖辺りをを通っていたとき窓が完全に凍っていたし、半端なく寒くて泣きそうだった。そのバスは道なき道を進み、短いアップダウン(しょぼいジェットコースターくらい)を繰り返し、おまけに暖房はなしで、バス内で空気を吸うと必ず咳き込んでしまうくらい煙だらけでかなりきつかった。このようにボリビア南部のバス事情はひどかった。ラパスからウユニに向かう旅行者は多いはずで、バスの行き来も盛んだ。でもラパス?ウユニ間(特にOruro?Uyuni間)の道路事情はよろしくなかった。ボリビアの国家レベルを実感する機会になる。

ウユニの塩湖にはウユニの街でツアーに申し込む必要がある。街には30くらいの旅行代理店があり、どの店でもツアーの相場が決められている。利用するのは大半が外国人旅行者なので、高い価格が設定されている。とりあえずラパスの日本人学生からの情報を元に、旅行代理店を選定し1泊2日のツアーに申し込んだ。ウユニ塩湖の真ん中にある塩のホテルに泊まりたかったので、そのプランを用意してある旅行代理店を選んだ。交通費やホテル宿泊料を含めて40US$。4WDじゃないと塩湖を移動することは難しいし、個人で手配する事も難しいのでこのツアー料金で納得するしかない。この値段は非常に高い。なぜならボリビアでは3US$(バックパッカーのドミトリー部屋)で一泊できるし、食事も2US$でできる。ちなみにバーガーキングのセットは15Boliviano(約2US$)。これは現地の人にとってはカジュアルではないと思う。

写真に映っている風景はウユニ塩湖にあるHotel Playa Blancaという塩のホテルの近くで撮ったもの。一面が塩の風景に最初ショックを受けた。何度も塩を採ってなめたがやっぱり塩で、それが琵琶湖の12倍て。もちろんその塩を売り物にしている訳で、その塩の値段を聞いたのだが40tトラック一台積んでいくらと思います??

40Bolivianoです。500円です!!!40000kgの塩が500円です。やばくないですかい?
このウユニ塩湖で赤穂の塩ブランドは高く売れるのでしょうか。

そのホテルプラヤブランカ。ホテルと名がついてるだけで、普通にイメージするホテルと思ってはいけません。そのとき泊まってたのは僕一人。ガソリンで発電してるだけなので、夜になると燃料節約のためろうそくの灯りのみ。風呂なんぞ当然なし。便所はあるが流れない。ホテルで一家族(写真の子供達はその家族)が住んで運営しているが、夜7時になると自分達の部屋に入ってしまう。夜は気温が下がるし、吹雪くが、星がすさまじいほど綺麗。天の川に手が届きそうな感じ。かな。

その夜、ろうそくの灯りで本(たぶんモーターサイクルダイアリーズ)を読んで、電気の大切さを感じる。そこから派生して自分が置かれている恵まれた環境を思ってしまう。最初は電気がない事にとてもストレスに感じたが、自分の常識というものを改めて考える機会になった。自分が思う常識から外れるとストレスを感じるが、塩湖のど真ん中に身を置き冷静に考えてみる。「この場所で住むひとつの家族がいる。彼らは必要以外電気をもたず、夜になると眠る生活を送っている。彼らにはそれが常識。こうして地球の裏側に生きている人がいる。僕の常識なんて世界的にみると全然非常識なんだ。」と考えていると、ろうそくの灯りがやたらと明るく感じて貴重に思った。ろうそくの灯りがレトロで格好良くみえた。その灯りの元での読書はその本の言葉以上のものをインプットしたように思う。
本来人間は保守的で、変化を嫌う生き物なのかな、と。でも変化が訪れた時、その変化を自分なりに解釈し吸収する事により新たな価値観が芽生え、成長していけるのかな等考えていたんだろう。

2005/10/09

少しアートな@東京

先日東京に行った際、少しアートな日を過ごした。
現在六本木ヒルズで開催中の杉本博司写真展に行ってきた。これはホント行って良かった。規模も大きく2時間半くらい会場に居たと思う。最近BRUTUSでも彼の特集されてましたな。
写真展というか、会場自体が写真との調和を考えて作家自体が構想されたもので、空間自体面白い。それまで杉本博司に関しては建築物をピンボケで撮影した作品群しかしらなかったのだが、今回会場を去るときにはこんなにも奥の深い偉大な写真家だったのだという印象を持った。と同時に写真に対しても色々考えさせられる事があった。特にコンセプトの大切さを改めて感じさせられた。
リンク先の一面、会場の最初の一枚でもある彼の劇場を撮った作品に関して、最初観た際は大判で撮影して黒も締まって非常に美しい作品だなくらいの印象しかなかった。しかし、彼のコンセプトは映画を一本丸ごと撮影するというものだった。映画一本分(約2時間)シャッターを開き放しで、結果的にできた写真はスクリーンの光が強すぎて観客等の姿は消し去られた理想的なものだと言う。長時間露光をする上で適正露出のもと作品を完成させるには、多くの時間を費やしたと思うし、彼がこの展覧会全体で表現しようとしている時間というコンセプトとも通じている。他にもまだまだ面白いコンセプトと写真技術を元にした作品が多く展示されてあった。建築物のピンボケ写真のコンセプトに関しても建築家が持つ設計前段階の構想をイメージしたそうだが、このような一貫したコンセプトで長期間、継続的に撮りつづけている彼の姿勢に作品を通じて感銘を受けた。

僕のように杉本博司をほとんど知らない、または知らない人でも会場では丁寧に彼のコンセプトが文章で書かれているので、写真(モノクロ)の美しさ面白さを感じ取れると思う。

後、MOLESKIN EXHIBITIONにも行ってきた。これは青山ブックセンター等の少しのスペースで無料で行われているもので、イラストレーターやデザイナーなどが各々のセンスでMOLESKINに描写等した作品が展示されている。僕が行った青山ブックセンター本店ではクリスチャン・ラクロワ等の作品があった。

2005/10/04

ボリビアの道路封鎖デモ

 サンパウロは南米旅行の終着点でその間のスケジュールは非常に不確定。ボリビア・ポトシ(POTOSHI)からアルゼンチン・ブエノスアイレスに行く際、ボーダー通過手続き等も含め通常2日で行ける。

 が、ポトシ近辺で大雪のためバス内で12時間ストップ。チェーンという概念もありません、もちろんスタッドレスタイヤなんてものも存在しません。夜が明けてみると同じようにストップしていたバスがずらーっと列をなしていた。その先に見事に横転しているバスを発見。雪で足元を救われたのでしょう。そらそんなものを目の当たりにして、標高4000mの山道を走る事はできませんね。そして、その後順調に進んでいたかと思うとまたストップ。今度は何かと思うと、バス乗客が一斉に荷物を持ってバスを降りだす。仲良くなったボリビア人の青年2人が「VAMOS、VAMOS(バモース、バモース)」さぁ行こう、さぁ行こう。と言ってるので、訳もわからずとりあえず僕もバスを降り山道を歩き始める。
 すると同じように多くのバスから降りて歩き出す乗客いる。しかし、外国人旅行者(欧米系・アジア系)は全くいない。少し道から外れた所が青空トイレになって、多くの人がトイレをしている(ボリビアだけが僕が行った4ヶ国のうち唯一バスにトイレがなかった)。そういう光景を横目に歩いていると僕も腹が痛くなってきた・・・。その後進んで行くと何やら人がやたらと(50-80人くらい)集まっている個所がある。
 僕はその時「土砂崩れがあって、それにみんな野次馬してるんだな。」と予想した。その場所に近づくにつれて、何やら旗が見える、人が言い合っている、辺りの道路上に不自然にサボテンや茨等の痛い系植物、岩等が散在している。そう、それは道路封鎖だった。その封鎖の仕方がかなり原始的で少し笑ってしまった。そのような道路封鎖ポイントが3箇所くらいあり最終ラインは明らかに先住民系のおばちゃんで構成された人のブロックができあがっていた。彼女らの表情は憂いに満ちていて、とりあえず封鎖しとこうという惰性的なものに感じられた。

 ボリビアに入る前から政情不安という事は頭に入れており、デモや道路封鎖も頻繁にあると聞いていたが、実際どのような理由でどのような人がどのようにそれを行っているかを知りたかった。チリに行くのをやめてあえて政情不安による治安悪化のリスクが存在するボリビアに入ったのも、実際デモという形で自分達の考えを主張する行為の裏側にあるものを知りたかったし、五感を持ってそれを感じたかった。道路封鎖という手段でデモを行っていた人たちは間違いなく先住民族のインディオ系の方々だった。彼らが何を望むか、それは貧困からの脱出である。仮に共産主義体制を平等の体制と彼らが理解しているのなら、本当にそれを臨んでいるかもしれない。一説によるとそれは真だと聞く。道路封鎖の現場を撮影したがったが、撮れていても1、2枚だと思う(モノクロフィルムで撮ったのでまだ現像はしていない)。最終ラインのインディオのおばさん達が作り出しているブロックを通過した時には異様な雰囲気で、カメラを出して撮ったときの多少の危険性を感じたので撮影を控えた。何せ明らかな外国人旅行者は僕くらいだったから。そしてその先に同じバス会社のバスが待機しており、それに乗ってボリビアとアルゼンチンの国境の町VILLAZONへと向かった。バス会社としても道路封鎖を想定してる事がわかったので、頻繁に道路封鎖が起こっている事が理解できる。

 というような経験をしていると、簡単にサンパウロに辿りつけそうな気がしないのは理解できるでしょう(上記の経験は特にボリビアに限った事だが)。後、サンパウロ都市圏は1500万の人が住んでいる程の大都市で簡単に目的住所に辿り着けるとは思わないからだ。ましてやブラジルではほぼ英語は通じないし。

2005/10/03

内定式で東京へ&少し旅を振り返る

 明日10月3日から会社の内定式が理由で3日間程東京に行ってくる(会社関係は月曜と火曜の午前だけだが)。東京在住の友人やら、同じようにあっちで内定式の友人何人かと会ってくる。2年前音楽と写真でコラボってライブをやった時(僕は写真だが)の友人が早くもタイに駐在してしまうので、しばしの別れを惜しむ会などもやってくる。


 そういえば南米旅行の際に内定先のサンパウロ支店に足を運び、幸運な事に現地駐在員の方とお会いしたというラッキーな事がありました。最初はネタのつもりでどんな建物かを見る程度の計画だったんやけど、目的地住所が近づくにつれてどうせなら誰かに会いたいと思いはじめた。
 いざサンパウロ支店の前に着くと、予想以上にセキュリティが高い様子で簡単に入れる感じでもなかった。日本の会社とは違い建物の周りに庭がありその周りを高い柵で取り囲んでいるような状態。なので建物に入るためには2つの玄関を通過する必要がある。敷地内に入る最初の玄関で、もう既に入れるような状態ではない。英語が通じない事が予想できるし、入る必要性がある存在とみなされる格好もしてなかったから。なんせ1ヶ月間寝るときも何をするときも一つのズボンでしたから(もちろん洗ってもいません)。
 そこで柵越しに敷地内を覗くと何やらアジア系の人がタバコを吸って休憩している姿が見える。チャーンスと思い、若干躊躇はしたがもう建物の中に入ってしまいそうだったので、思いきって少々大声で「すいませーん」と呼びかける。するとその方は僕が若干失礼に思いながらも手を振っている姿に気づいてくれる。柵は棒と棒の間に十分な隙間があるのでそれ越しに会話をする。その方は少しの日本語と英語を話せる現地採用で日系ブラジルの方。僕がどういう理由でここに来ているかを熱弁すると、中に入れてくれる手続きを取ってくれた。後で分かったのだが、その方は僕がこの会社で働きたいと思っていると理解していたそうだ。英語の微妙なニュアンスが伝わっていなかったのだろう、無念。日本からの駐在員の方と話したいと告げると建物内に案内してくれて、駐在の方を呼びに行ってくれた。
 少し時間が経った後に駐在員の方が現れる。日本語スピーカーつまり日本からの駐在の方はその方だけで社長補佐という役職に就かれていた。とてもお忙しい様子だったので少しの時間しかお会いする事はできなかった。その時はもろオフィスアワーだったし、ノンアポだったのでアポを取っておいてくれたら時間を取れたと言ってくれていたが僕にとってアポを取る行為はリスクのある事だった。

ボリビアの道路封鎖デモに続く