2006/01/30

声がでない

今年2回目の風邪.

原因は不規則,睡眠不足と自分では分かっているものの,週末2日とも論文作成やら飲みやらで京阪神の3都物語を演じてみたり,まぁ風邪が悪化するのもしょうがない.
前回はインフルエンザだったが.今回は熱はないものの声がでない程喉がやられる系だ.4年に一度くらい声が出なくなる風邪にかかっているような気がする.

声が出なくなるのは,本当にしんどいです.
まぁ完全に出なくなるわけではないんやけど,自分の思うような音量やトーンが出せなくなる.そうなると,人とのコミュニケーションがやや不安になる.自分自身のことをうまく伝えれなくなると,自分からコミュニケーションを控えてしまう姿勢になる.

あるアメリカの心理学者が行なった『人が他人から受け取る情報の割合』の研究で,「言葉」「声質」「顔の表情」という3つの情報のうち,「顔の表情」が55%,「声質」が38%,「言葉」はわずか7%だという.相手の顔の表情,声音,声量などと言葉とで矛盾した情報が与えられた場合,人は言葉以外の非言語情報を9割以上の割合で重視して相手を判断するという実験結果がある.

こう考えると,昨日の同じ大学内定者の飲み会での僕の情報伝達力は格段に低かったと思われる.実際,「今日はあんまりしゃべらんなぁ」と言われた.うまく声が出ないと思うので,表情もこわばり,声量もうまく出せていないので,上の心理学者の見解では僕は伝えたい事の1割しか相手に伝わっていない事になる.

ということで今日は論文よりも喉の回復を最優先し,自宅療養をした.と言ってもここぞとばかりに寝まくっていただけ.夕方になって,声が治る気配もないので行きつけの病院にいく事にした.注射を打って,薬をもらった.

話は前後するが,本来なら今日は助教授と研究の打ち合わせがあった.昼頃に研究室の秘書さんから,「先生が風邪で休みなので打ち合わせは延期」との連絡があり,ややホッとした.助教授意外と病弱でナイス.
が,論文の提出期日は変わる事なく,明日からは再び研究室な生活だ.

友人に喉の風邪にはりんごと生姜が良いと聞いたので,今りんごを食べながらこれを書いています.密が詰まっててマイウーです.

2006/01/22

仮説思考とやら

最近の生活は2日に1日は研究室で,もう1日は自宅で寝る生活.研究の頭でやや混沌としてたので,一昨日の帰りに雑誌を買って気分転換.

買った雑誌は年に4回東洋経済からだされている,THINK.いわゆるビジネス雑誌で,面白いトピックの刊は買うようにしている.

今回は仕事で実践するコンサル力がテーマで,別に自分がコンサルタントになる訳じゃないけど,このテーマに関しては関心があるので購入.

気分転換のつもりで読んでいたが,今やっている論文作成の行為に直結するアイデアを吸収できた.

それは仮説思考という考え方.

ボストンコンサルティンググループの内田和成さんの項でこの仮説思考の利点について説明していた.仮説思考の定義は「物事を答えから考えること.
まず,仮の答えを出し(予想し),その答えまでのプロセスを導いていくやり方.
彼は「コンサルタントとして鍛えられていく中で,仮説思考を基にした仕事の進め方を身に付けていくために,問題解決のスピードが格段に早くなる.」と語る.

自分も含め,多くの人がそうであると思うが,仮の答えを見出す事が困難だと感じる.

この点(仮の答えを出す事)に関して,内田さんは将棋の羽生善治の例を出して,直観力,カンの働きが重要になると話す.羽生名人は将棋の一つの局面に80通りの指し手の可能性があるが,そのうち2、3の手だけを直感で選び自分のカンを頼りに検証していく.ただ,単なるヤマカンではなく経験や学習を通じて自分自身の中にストックされたデータベースを基に,それらを活用しながら集中して考える事で筋のよさそうな仮説が浮かび上がってくるのではないかと言っている.

確かに,今自分が作成している修士論文においても,卒業論文の頃よりも仮説(結果)が自分の中で明確化されているように思う.それは,おそらく土木計画という分野の研究室に曲がりなりにも3年間属し,その分野の論文にも多く目を通し,数々の背景を基にした研究の目的を自分なりに理解できるようになったからではないかと思う.なので,学部4年の頃のカンよりも,現時点の研究に対するカンはより洗練されたものではないかと思う.

ただ,その仮説に関しては間違っていても問題はないと内田氏は話す.「どんどん仮説を立て,検証して間違っていたら別の仮説を立てる.よさそうならば,その仮説を進化させる.それの繰り返しだ.すなわち仮説・検証の回数が重要だ」と.

確かに,分析を進める上で予想外の展開や新たな発見により軌道修正が必要なことは自分自身の経験からも理解している.失敗のパターンや成功のパターンを自分の中に暗黙知ではなく形式知としてストックする事で,確かなカンを構築する事ができるのだと思う.
そのカンってのが将来を展望する先見力にもつながるのかな.

とりあえず吸収したものは実践しないと意味がないと思うたちなので,今回の仮説思考の項で得た事を研究で実践する事にした.

研究における大局的な仮説をさらに細分化して,章毎の仮説,節毎の仮説を決めどんどん論文としての形にまとめ上げていく.最後の最後まで良い結果をだそうと分析をうじうじやるよりも,現時点でだせるだけの結果を出し論文の枠組みを仕上げて,修正という形で分析をやり直すアプローチで臨もうと思う.

2006/01/18

震災の記憶@研究室



今研究室でふと1月17日阪神大震災について触れたら、淡路の人間に軽軽しく語るなとか言われました。俺も一応大阪在住なんで、頭にCDラジカセくらいは落ちてきたんですがね・・・。

まぁ自分の席の左手には上の写真(携帯でとりました)にあるように昼と夜で神戸の景色がいつも見えていて、10年前にはものすごい事が起こったのだと思うと、少し冷静になってしまう。

この間研究室を掃除していると、当時の研究室の学生が綴った震災当日の日記があった。折角なので、自分がこの事実を振り返る意味も込めて少し抜粋してそのまま載せようと思う。


以下日記より(1995年1月17日地震発生後、明るくなりはじめた頃から)


 空がちょっと白んできたので、私は車を学校に持っていくことにした。ブロックをのけて学校へ走り出すと信号は作動していないし、道路はいたるところで割れているし、JRの高架は落ちてるしでえらいことになっていた。ところが、学校に着くと、学校は何事もなかったかのようだった。私の原チャリも倒れていなかった(倒れてまた立ったという説もある)。ここで、実家に電話して無事を知らせ部屋に戻った。

 部屋に戻ると(ちなみに部屋は御影石町)うちのマンションの周りは騒然としていた。うちのマンションの古い木造住宅はほとんど倒壊していたが、それらに火がまわってしまったらしい。「母と妹がまだ家の中にいるんです」という女の人の声がして、周りの人たちと助けようとして行ったが、もうすでに火が回っていてどうしようもできない状態になっていた。消防車は来ないし、消火栓から水も出ない。家族の人が「さっきまで声がしてた。まだ生きているから助けてあげてー」と叫ぶが誰も何もできなかった。そうこうしているうちに、一面火の海になってしまって、とうとううちのマンションにまで延焼しそうになった。
近所の住人と一丸となってバケツリレーをして、なんとかそれ以上の延焼はまぬがれたが、それでもかなりの面積が焼失してしまった。
このバケツリレーは朝の8時過ぎから昼の2時過ぎまで延々続いた。途中チャリンコでMが来て手伝ってくれた。

やっと下火になったので、Mと原チャリに2ケツして学校に向かった。もう道路は大渋滞していてローソンも長蛇の列だった。
私とMは飲み物を確保し、学校に来ると見事に電気が来ておりTVもうつった。
その晩はSも加わり3人で寒さと余震に震えながら研究室で明かした。

その次の日、朝農学部で炊き出しのおにぎりを2個もらい昼過ぎ、Mと私は「地獄のアウトロー」と化し、2ケツ、ノーヘル、歩道走りで西宮北口まで逃げ出した。阪急で梅田まで行くと、まるで何事もなかったかのように普段どおりだった。知り合いの阪急の姉ちゃんは相変わらず笑顔で商品券を売っていた。力が抜けた・・・


以上 日記より。


微妙にオチがついていたが、結構リアルな内容だった。もちろんほんの一部の震災エピソードやけど、貴重な体験談としてのこの日記をあの時ごみ箱にポイしなくてよかった。他にももっと大変な事があったんやろうなと思いながら、また左手に見える神戸の空をみてしまう深夜@研究室でした。

2006/01/14

世の中デジタル化?

ニコンが銀塩フィルム市場におけるカメラ・レンズ生産の大幅縮小の記事をみて.高級機のF6とマニュアル入門機FM10を残し,レンズに関してはオートではなく,マニュアルレンズのいくつかだけを残すらしい.

僕はキャノンユーザーなので,直接的なダメージはないのだが,最近,撮影のバイトで先輩にニコンのF100を借りて初めてニコンカメラを使ったのだが,キャノンのオートフォーカスよりもボディーやレンズがアナログ的な設計で硬派な印象を持っている.この点に結構惹かれてニコン機に乗り換えてもいいかなと思っていた.

今回の記事に関して思ったことを少々。

1,ニコンユーザーのメンテはどうなるの?

 うちの写真部には結構F80とかF100を使っている人がいるのだが,そのどちらもが生産中止,さらにオートフォーカスのレンズも生産中止なので,長期的に見たらそれらのメンテナンスが厄介になりそうだ.特に古くに生産されていたマニュアル式のカメラと比較して,これらのオートフォーカス製品は電化製品的気質が強く,電子部品が各々に設置されている.ので,他でまかなえるような代替部品はなく,修理にはメーカーを通す必要がある.

ただ,デジタル一眼のレンズ等の部品で補える可能性もあるし,ニコンにとっては既存ユーザーに対するブランド力を低下させないためにも,その辺の策は考えていることだろう.
 
2,キャノンが銀塩カメラ市場独占?

 日本における銀塩市場で,キャノンとニコンが2大メーカーだが,この内のニコンが縮小となると,キャノンが銀塩のオートフォーカスカメラに関してはニコンユーザーを囲い込む構図になるのか。いくらフィルム市場が減少しても,今後も少なからず需要は存在すると思うので,キャノンがどのような手をうって来るのかが気になる。
 今回のようなニコンのフィルム市場縮小の影響で一般消費者はよりデジタル一眼へ向かうのか,それともフィルム一眼なら選択肢の多いキャノンにしようと思う人が増えるのか。

3,ていうか銀塩自体が消える?

 先の記事から,
昨年1月から11月の国内全体の出荷台数累計は、フィルムカメラが前年比49.2%減の28万5344台と大幅減。デジカメは前年比1.1%減の757万3630台と横ばい。レンズ交換式デジタル一眼レフは、前年比52.3%増の50万513台と需要が拡大という内容に関して。

数字だけみると,各メーカーはデジタル一眼に資源を集中させたいと思うが,この市場に関しては有望市場であるがその点競合が多い。
松下やソニー,富士フィルム,など等フィルムカメラ市場では存在しなかった企業が競合となる。もちろんキャノンもだ。
デジタル一眼に関して,ニコンは蓄積されたノウハウで高級路線で他者と差別化していくだろうと思うが,今後どうなっていくだろう.
根強く残ったフィルムカメラユーザーはキャノンが奪っていくのか。

自分は銀塩を愛している一人なので,使うものに関してはできるだけ多くの選択肢を持ちたいし,将来的にみても根強く残るユーザーだと思うので,このニュースは少し悲しいものである.

というのも現像の際,露光によって潜像を生じた乳剤中のハロゲン化銀を金属銀に還元するプロセスを,あの暗くて薄赤い空間で眺め,何とも言えない感情を今後も持ちつづけたいと思うからだ。ある意味,自分にとっての癒しの空間である暗室に,今後とも篭る動機を与えてもらう必要があるのです(笑) 

2006/01/09

更新

久しぶりにテンプレートを更新した。
なんか使いにくい面もあるが,ま,当分はこれでいこうかなと。

後,read recentlyも更新しました。
やっぱ,改めてその時その時で関心の強い本を読むのが一番効率がいいな,と。

友人は残された学生生活1ヶ月10冊読むと言ってましたが,僕は後3ヶ月で15ー20冊読めればいいかな,と。1冊の質と量にもよりますがね。たまには有言実行型で。

それよりも,論文の方でまだまだ膨大な文献を読む必要があるし,2月中旬までは研究がメインでぼちぼちやっていこうかと。

2006/01/02

新年を展望する

 次に2006年が自分にとってどんな年なのか展望してみると・・・初社会人になる年である。
生まれて初めて自分が社会に飛び出すわけだ。なかなか感慨深いが、これまでも別に社会と切り離された存在だった訳じゃないし、社会人になる事で特殊な環境に放り込まれる、とも思っていない。むしろ今の自分にとって未知の領域が広がってそうで楽しみだ。人の出会いとかはもっと楽しみだ。

 根本的に何かしらの生産をしてお金をもらう訳だから、学生の頃よりもシビアな世界であるのは間違いない。安藤忠雄さんとバイト中に会ったときこう話してくれた。『自分の研究室の生徒に対しては厳しくない。でも設計事務所の部下に対しては相当厳しい。なぜなら後者の人間にはお金が発生するから。』
 
 そういえば表参道ヒルズが楽しみだ。

 まぁ、社会人に対して色々想いを巡らせていても後3ヶ月な訳だから、今ある学生の時間を最大限有効活用すべき事を考えていこう。それが、4月からのモチベーションにも繋がると思うから。

 2月上旬の修論提出までは、それに大半の時間と労力を注ぎ込もうと思っているが・・・。常に部分をチェックし全体を俯瞰する事を心掛け、一日一日のタスクを決めて確実に実行していこう。それと並行して、自分に足りない部分を補うべく本、その時に最も関心がある本を効率よく読もう。

 で、修論提出後は写真に関する何らかのイベントをしよう。旅行もちょっこっとしよっかな。うーん、あっという間に3ヶ月が過ぎていきそうだ。

 後悔のない日々を送る事。これに尽きる。

2006/01/01

旧年を振り返る

 久しぶりにこのブログで文を書くような気がする。
2006年にもなった事だし、少しは2005年を振り返ってみるのもありかな。と。

 2005年を軽く振り返ってみる。

大きく分けて 1、就職活動 と 2、南米旅行

1、就職活動

に関して結論から言うと、人との出会いそのものだった。
後悔のない就職活動をしたいと思っていたので、その通り後悔のない就活ができた。
行動に移す事に重きを置いていたので、本当に良く動いた。自分の可能性を存分に引き出したかったし、機会を失う事が何よりも嫌だったので、夜行バスを使って何度も東京に行ってた。その行為は特につらくなかった。機会を失う事に比べては。おかげで本当に幅広い分野の業種を見ることができたし、多くの貴重な人との出会いもあった。

 色んな分野を試した自分、五感で感じてきた自分だからこそ、4月から働く会社が最適だと思えるようになったんじゃないかなと思う。

 本質的な事は経験しないと分からない、人と会ってみないと分からないと真剣に思えるようになった。それが自分にとっての就職活動だった。このスタンスは今後の自分の価値観に大きな影響を与えるものとなる。

 今思うと、就職活動期に仲良くなった友達とは今後とも仲良くやっていけそうな気がする。


2、南米旅行

2005年の8月30日ー9月30日の期間、ペルー、ボリビア、アルゼンチン、ブラジル、帰りに3日間トロントを巡った旅。
この旅の詳細は過去のアーカイブ(2005年8月 2005年9月 2005年10月)を見てもらったら分かると思うが、とりあえず未知の何かを求めたいという探究心が行動に移させたと思う。

 このような旅をする事で自分が世界的な問題に対して身を持って感じ、考える機会になる。それが長期的に自分の中に形式的にしろ暗黙的にしろストックされ、経験したトピックがあると容易に自分の中に入ってきてくれる。さらに、容易にその際に考えていた問題意識も蘇る。
例えばボリビアの話。
最近(2005年12月28日)のトピックで、ボリビア大統領が初の先住民系(インディオ)のモラレス氏になった事。この方、社会主義運動党らしく、さらに最近のトピックではキューバに訪問してカストロ氏と会談したりしている。

この件に関して、2005年9月中旬に自分が訪れた際、先住民による道路封鎖デモの経験から考えた事。
彼らは市場経済の流れについていけない事からくる貧困が理由に、おそらく単純な思いで社会主義というものを熱望していた。それと並行して、少なからずゲバラの影響が彼らにとって大きい事がいくつかの場面で感じ取れた。町にいくつかのキューバ料理屋もあり(実際に食べた)、親キューバ的である面も感じとれた。

上のように自分が経験から考えた事が、数ヵ月後に今のボリビアを考える上でのキーワードとして現れてきた。なので、どういう状況で、どのような背景でこの社会主義運動党の人物が選ばれたのか想像する事はできた。少なからず人口の40%を占める先住民の思いが通じた選挙だったのかもしれない。

 今回、社会主義党で先住民の大統領選ばれた理由としては、ボリビアの市場経済導入による腐敗政治や貧富の格差に対して、国民の不満が溜まっていた事が挙げられている。
 
 このような遠くの南米の最貧国の選挙にも、自国のように夢中になって好奇心を持ちつづけられる事、これが僕にとって旅をする意義かもしれない。