2006/01/18

震災の記憶@研究室



今研究室でふと1月17日阪神大震災について触れたら、淡路の人間に軽軽しく語るなとか言われました。俺も一応大阪在住なんで、頭にCDラジカセくらいは落ちてきたんですがね・・・。

まぁ自分の席の左手には上の写真(携帯でとりました)にあるように昼と夜で神戸の景色がいつも見えていて、10年前にはものすごい事が起こったのだと思うと、少し冷静になってしまう。

この間研究室を掃除していると、当時の研究室の学生が綴った震災当日の日記があった。折角なので、自分がこの事実を振り返る意味も込めて少し抜粋してそのまま載せようと思う。


以下日記より(1995年1月17日地震発生後、明るくなりはじめた頃から)


 空がちょっと白んできたので、私は車を学校に持っていくことにした。ブロックをのけて学校へ走り出すと信号は作動していないし、道路はいたるところで割れているし、JRの高架は落ちてるしでえらいことになっていた。ところが、学校に着くと、学校は何事もなかったかのようだった。私の原チャリも倒れていなかった(倒れてまた立ったという説もある)。ここで、実家に電話して無事を知らせ部屋に戻った。

 部屋に戻ると(ちなみに部屋は御影石町)うちのマンションの周りは騒然としていた。うちのマンションの古い木造住宅はほとんど倒壊していたが、それらに火がまわってしまったらしい。「母と妹がまだ家の中にいるんです」という女の人の声がして、周りの人たちと助けようとして行ったが、もうすでに火が回っていてどうしようもできない状態になっていた。消防車は来ないし、消火栓から水も出ない。家族の人が「さっきまで声がしてた。まだ生きているから助けてあげてー」と叫ぶが誰も何もできなかった。そうこうしているうちに、一面火の海になってしまって、とうとううちのマンションにまで延焼しそうになった。
近所の住人と一丸となってバケツリレーをして、なんとかそれ以上の延焼はまぬがれたが、それでもかなりの面積が焼失してしまった。
このバケツリレーは朝の8時過ぎから昼の2時過ぎまで延々続いた。途中チャリンコでMが来て手伝ってくれた。

やっと下火になったので、Mと原チャリに2ケツして学校に向かった。もう道路は大渋滞していてローソンも長蛇の列だった。
私とMは飲み物を確保し、学校に来ると見事に電気が来ておりTVもうつった。
その晩はSも加わり3人で寒さと余震に震えながら研究室で明かした。

その次の日、朝農学部で炊き出しのおにぎりを2個もらい昼過ぎ、Mと私は「地獄のアウトロー」と化し、2ケツ、ノーヘル、歩道走りで西宮北口まで逃げ出した。阪急で梅田まで行くと、まるで何事もなかったかのように普段どおりだった。知り合いの阪急の姉ちゃんは相変わらず笑顔で商品券を売っていた。力が抜けた・・・


以上 日記より。


微妙にオチがついていたが、結構リアルな内容だった。もちろんほんの一部の震災エピソードやけど、貴重な体験談としてのこの日記をあの時ごみ箱にポイしなくてよかった。他にももっと大変な事があったんやろうなと思いながら、また左手に見える神戸の空をみてしまう深夜@研究室でした。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

地獄のアウトローってところにわろた。
確かに今学校からそれやったら2国に着く前に撃沈やね。

まぁ冗談抜きであの日の怖さを知ってるおれとしても、こういう体験談を伝えていくことはほんまに大事やと思いますわ。

日記拾って保存してた森ちゃんグッジョブ!