2009/03/08

書籍『21世紀に生きる君たちへ/司馬遼太郎』

タイトルに書いた『21世紀に生きる君たちへ』司馬遼太郎著を読んだ。
同じ会社で働く、元小学校の教諭をされていた2児の母である先輩が貸して下さった。
会社帰りの喫茶店の時間と、家に帰ってからの時間の2度読んだ。小学生でも読めるように字が大きいのですぐに読めるが、非常に奥が深い本。

以下、感想。
とてもよかった。
恐らく、自分が小学生の時にこの文章を読んでも大して感動はしなかったと思う。それは、その当時の自分が司馬遼太郎という人物がどのような人間なのかが知らなかったからである。小学校の読書感想文を3年連続オズの魔法使いのあとがきをコピペしていた自分が懐かしい。


自分が現時点で人生の柱とする書物が2つある。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』と『坂の上の雲』。
これら2つの本に大きく影響を受けた自身にとっては、改めて司馬遼太郎から授かった言葉を反芻する機会となった。

司馬さんが歴史を学ぶ事の素晴らしさを本書でも説いているが、自身も強くそう思う。
そもそも上記2つの大書を通じて、司馬遼太郎から大きく影響を受けてるので、自分が彼に共感を持つのはもっともな事だが。
歴史を学ぶ事で、この世で生きて行くための知恵を身につける事ができると思っている。
その理由は司馬さんが本書でも記載しているように、『自然の中で人間が営む生活はいつの時代もほとんど変わらない。』と思っているから。

上記2つの本は(ご存知かも知れませんが)、それぞれ幕末の動乱と、日露戦争について書かれているのだが、どちらも史実を描写するというよりも、その時代に生きる人間(の内面)に焦点を当て記されている。
これらの本で、まさに坂本竜馬という人間や彼を取り巻く人間、日露戦争に係った人間について学んだ。

竜馬がゆくでは坂本竜馬から『気を気で返すな』という事を学んだ。

具体的なエピソード。
尊王攘夷の風潮が濃くなった幕末の京都で、坂本龍馬が細い路地を手下の藤兵衛と共に歩いていたとき、向こうから親幕派の2人がこちらへ向かって来た。
互いにすれ違う事もできない細い路地。殺気だって敵だという認識を持って近づいてくる。
肩と肩がぶつかり合うと、切り合いになる事が予想される。
そこで手下の藤兵衛が竜馬にひとこと「兄貴、やりますか」。そこで竜馬、「まぁみていろ。」と。
いよいよ距離も近づいて、向かってくるものが刀に手をやったとき、竜馬は近くののら猫をとっさに抱え上げ顔に押し付ける。「よーしよしよし。」と。
相手は拍子抜けしてその場を立ち去る。
そこで竜馬は藤兵衛へ一言。「今の切り捨て御免の風潮が高まる中、相手が殺気立っている時にこちらも同じように返すと切り合いになり一方がやられる。それ程無駄な死はない。今流す血は何になる!?つまり、気を気で返してはいけない。」と。

坂の上の雲では、秋山真之(日本海海戦でバルチック艦隊を破った戦術を考案した人物。東郷平八郎の参謀。正岡子規の幼なじみで親友。)から、「どんな大著でも学べる事はたかだかメモでとれる数行だ。」という事を学んだ。

日露戦争で、日本の勝利を決定づけた日本海海戦の丁字戦法やバルチック艦隊が日本海周りに進行してくる事のヨミは、神頼みでも何でもなく、彼がワシントンの図書館で古代からの戦争を全てレビューし、歴史から学んでいた事が大きな影響を与えていると言われている。

そんな彼が同じ松山出身で古くからの友人の正岡子規の病床を伺った際、たくさんの本を子規に送った。その時の言葉として、「自分みたいな軍人にとって書物は戦場で使う知識を得るために読むもの。実際に戦場で使える知識は、どんな大書であってもせいぜいメモで書き取れる数行だ。だから、その数行をメモしさえすればもうその本には用はない。だからお前が持っておけばいい。」と。

自分もこの考えを受けて、自分の人生で読む本に対しては、何を得る事ができたのかを常に考えながら読むようにしている。何か少しでも得る事ができればそれは自分にとって価値がある事だと思っている。

以上のように、司馬遼太郎から学んだ身としては、今回の『21世紀を生きる君たちへ』で書かれていた、「自己を確立せねばならない事」、「根っこの感情(いたわり、他人の痛みを感じること、やさしさ)を持つ事」、「たのもしい人間となる事」等々について、影響を受けた上記2冊でも愚直に伝え続けていたのだという彼の一貫性について感動した。

今回の読書で、上記2つの小説により言語化できないまま自分にストックされていたものが再燃して、司馬さんが何を伝えたかったのかがよりクリアになる機会となった。

というような読書感想文をお貸し頂いた方に送った。

2009/03/04

映画『お早よう/小津安二郎』

暫く更新をしていなかった。
年度末ですが元気です。

それはさておき、さっき小津安二郎の『お早よう』を観た。1959年の作品でとても面白かった。

引っ越して近辺にTSUTAYAがなく(前もなかったが・・・)、DVDを借りる事がなくなっていたのだけれど、年明けから赤坂のTSUTAYAを利用しだしてDVDを観る機会が増えた。

平日の夜に観ていると、(内容に係らず)70%の確率で途中で寝てしまうので、1本を2日に分けて観たりしている。

映画って何を観たのか忘れがちで、映画の内容以前に何の映画を観たのか思い出せない事も多いので、備忘録的にも良い映画は書き留めておいた方がいいかなと思っていた。
その行為に何の意味があるかわからないけど、何かを感じとれる映画にしたいという意識を持って観る方がいいかなと思っている。
本や音楽と一緒で、最近はできるだけ多くの映画に触れたいと強く思うようになった。

そこで『お早よう』。
これは、TSUTAYAに行った際、雑誌FRaUが『子供がいい味を出している映画』を推薦している棚があり、その一つとして『お早よう』があったので、直感的に借りたもの。確かにめちゃくちゃ子供がいい味を出していた。色んな事を気づかせてくれた深い映画だった。

舞台は1950年代後半の東京・荒川の土手近辺にある数件の住宅が共存するエリア。
まだほとんどの家庭で3種の神器(冷蔵庫、テレビ、洗濯機)が揃わず、子供はテレビを観に隣の家にお邪魔するという、"お隣さん"の概念が色濃く残る時代を映している。
主人公は兄と弟の二人兄弟。

ある時、彼ら2人がテレビを買ってくれと両親にあまりに無理を言うので、彼らは両親から『余計な事を言うな』と叱られる。そこで彼らは、大人も『お早よう』、『いい天気ですね』、『お元気ですか』等余計な事を言っているじゃないかと反論。それでも叱られる彼らは反抗の意を込めて言葉を発しない戦略を打って出る。

彼らは言葉を発しないがために、近隣の人にも挨拶をしなくなり、学校でも全く何も話さないので、"お隣さん"からその子達の家庭に対して陰口を言われるようになる。

彼らが言葉を発しない様子をみて、理由を耳にしたある大人は、『確かに生きて行く上で無駄な事が多いように思う。でもその無駄がないと人生はつまらない。』という。またある大人は、『お客と無駄な事を話して、車を売っている』ともいう。
生きて行く上で、何が無駄で何が本質かという、壮大な意を暗示しているかのよう。

ただ、終始子供達のコミカルな様子(おでこを押した途端に、おならをする事にハマっている等)が描写されていて、微笑ましい内容。
また、Nationalのテレビや各種家具等1950年代後半の日常を伺い知れる記録的要素も強い映画だった。

今後、小津作品をもっとみたいと思った。