2013/12/01

映画『ハンナ・アーレント』

映画「ハンナ・アーレント」を観た。思考とは何かを学んだ。

哲学者ハイデカーの愛弟子、ハンナ・アーレント(1906-1975)はユダヤ人でナチスの強制送還から逃れた女性。ハイデカーの思想に影響を受けながらアメリカに亡命し、哲学者として大学で教鞭をとっていた。

彼女が雑誌「ニューヨーカー」からの依頼で、ナチス戦犯者(アドルフ・アイヒマン)のイスラエルにおける彼の戦争犯罪(ユダヤ人強制送還・虐殺)裁判を傍聴し、当雑誌に投稿した事で多くの反響を呼んだ。
主にユダヤ人からの負の反響(侮蔑・脅迫等)が強く、多くのユダヤ人が彼女を敵視し、多くの親しい人との縁も崩壊してしまう。


『思考とは何か』、ハイデカーから影響を受けた根源的な問い。彼女は今回の裁判の傍聴記録、主張で彼の思想を応用する。
「思考停止に陥ると善悪の判断ができない、モラルすらも失ってしまう。」
それはハイデカーから学んだ『思考とは、善悪を判断し、道徳的な良識を人類が持つべき知恵だ。』の裏返しの論理でもある。


戦時下でその判断ができないナチスのユダヤ人強制送還課の長(アイヒマン)を彼は平凡な悪を犯した人間であり、彼は法に従って任務を遂行しただけだった。」とユダヤ人にとってナチスの擁護とも取れる自論を展開する。600万人のユダヤ人(彼女にとっては同胞)が虐殺された事実があるにもかかわらず…。
彼が元SS(ナチスの秘密警察)だったというだけで、ユダヤ人を憎んでいたという証明にはならないとも。
極めつけは、『ナチスのユダヤ人強制送還に手を貸したユダヤ人協力者の存在がなければ、もう少し犠牲者が少なかったであろう』という主張に対しては、多くのユダヤ人から反論と侮蔑・憎悪の声が上がった。

しかし、それは彼女なりの事実を伝えたものであり、推測ではない。
『迫害者と被迫害者の協力と抵抗の間の何かを言及することはできないが、その存在を否定することはできない。』とも。

彼女は何もユダヤ人からの反論を招く事を期待したのではないと思う。アンチユダヤの主張をしたかったわけでも当然のようにない。
ハイデカー哲学の継承者として、「フラットに戦犯者の証言を自らの耳でヒアリング」し、「論拠のない主張(ムーブメント)を徹底的に排除」し、「哲学者としてフラットに事実を自論を伝えたかった」のだと思う。


多くのリスクが伴う彼女の主張を動機付けたものは何か、までは語られて無かったが、『思考をする』事の大切さを伝えたかったのだと思う。
思考ができない状態の人間の判断とは、意味のなさないものと言いたかったのだろうか。


そしてナチス戦犯者は絞首刑になった。

2013/09/24

書籍『心/姜尚中』

夏目漱石の「こころ」の現代版だろうか。

それとも本書の雑誌(青春と読書)連載時のタイトルは「新・君たちはどう生きるか」なので、吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」の構成を基にした書籍か。

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先生(姜尚中)と出版サイン会に来ていたある青年(大学生)とのメールのやり取りで物語は進行してゆく。

先生がその青年に惹かれ、親身になって彼の悩みや相談事に対応していたのには理由があった

それは近い過去に他界した姜尚中先生自身の息子とその青年が重なってしまったからだと最後に記されている。

以前、NHKのドキュメンタリーでも特集していたのでそれは事実だと思われる。作品のモデルとなった青年とも面会していた。


本書の中身はフィクションが含まれていると思うのだが、青年は「①親友の病死」、「②病死した親友と自分が愛した女性」について悩む。

「何故若くして親友が病死しなければならなかったのか」、一方、「親友が他界する間際に、自分と同じく好きな女性の事を好きだと告げられて、どう生きればよいのか」等の深い悩みを抱え、都度先生にメールで相談する。そして先生が親身に応える。

青年が、生と死について考えたいと思い志願した東日本大震災の海中不明者の捜索ボランティア。

遺体を引き上げていく過程で自ら悟った「死」とは何かについて。

遺体を引き上げる都度、死と直面し、青年はその意味を考える。同時に若くして他界した親友の死を重ね合わせる。


『「死」は「生」を輝かせてくれるもの』、多くの感情の紆余曲折を経て、そう結論づけた青年。


主眼は「生と死」だが、ゲーテの「親和力」の内容を多分に引用し、男女間の複雑性についても述べる。ゲーテの「親和力」自体、理性を超越した男女間の愛により悲劇が訪れる様と内面的感情の挙動を描いているのだが、それは現代に至る普遍性を持つから引用しているのだと思われる。

青年から愛を告げられる意中の女性。

女性はその青年に好意を寄せるもののドイツに残してきた彼との狭間で揺れる。
女性は言う、「その彼は一緒にいると張り合う感じがあって、いいところを見せようとして自分を作ってしまう。会う前後でも緊張する。」。
一方、青年といる時みたいに素になれないとも言う。

「でも、それ(前者)が胸の高鳴りみたいなものに繋がって、そういうものを恋というものじゃないかと思ったりする。」と。

どちらが正しいか分からないので少し距離を置きたい、ドイツに行くと言う。青年は落胆。

時間が経ち結果的に女性は青年の元に戻ってくるのだが、その間、先生は青年に多くを伝える。

・人間は○か×か、黒か白かに弁別できるほど単純ではなく、もっと混沌としたもの。
・他の生きものと違って生半可に知恵を持っているだけに、人間はそれを分析し、分類し、自分の支配下に置こうとしたがるが、そんな事ができるはずはない。
・混沌というそのものが、まさに人間という自然でもある。
・愛が強くなれば強いほど、また愛がピュアであって欲しいと思えば思うほど、かすかな濁りですらも許せなくなる。しかし、濁りがあればあるほど、愛が募り、ピュアなものへの憧れが強くなっていくように思う。
・愛と不信、純粋と汚濁とは、手に手をとって人の心に熱を与えつづけているとも言える。


重要なことは、ものごとの正解・不正解を弁別することではない。右か左のどちらかを選ぶことでもない。両方を受け入れること。

これは「死」と対峙する時にこそ重要で、「死」から得るものはまさにその人の一生に何があったとしても受け止めること。

死は生の中にくるまれて存在している。死と隣り合わせ、死と表裏一体でつながっているからこそ、生は輝き、意味のあるものになる。


そんな事をこの本から気づかされた。
自身の人生の糧にしたいと思う。

2013/09/17

映画『ブロンクス物語』

2回目の映画。ロバート・デニーロ監督。
前回観たのは、2010/2/22。この映画から得た言葉がメモに記録されていた。

「一番の悲しみは、才能を無駄に失うこと」

「帆に吹く風となる最高の女性は生涯に3人居る」


ニューヨークのイタリア人移民街・ブロンクスを舞台に、少年がバス運転手の父親(ロバート・デニーロ)に育てられると共に、ある出来事がきっかけでマフィアのボスにも可愛がられ、生きていく上で必要な多くを学び成長していく。
少年はスリリングなマフィアのボスに惹かれていくが、両親は当然ながら良く思わない。


実の父親からは、正しく生きる事を学ぶ。
「一番の悲しみは、才能を無駄に失うこと。だから真っ当に生きろ。」

一方、マフィアのボスからは、生き抜くための教訓、嗅覚を学ぶ。(彼は決して自分の道に少年を踏み入れさせようとはしない。少年には別の人生を歩む事を勧める。)

「帆に吹く風となる最高の女性は生涯に3人居る。ではそれらの女性を見抜くには?」というような事。(あえて詳細を書かないが、要すれば気が利く人間か否かと言う事。同じような観点で池波正太郎の著書「男の作法」でも記載があった。)

「感情のままに動くのではなく、起こした行動をもう一度考えろ。」
少年が不良グループの抗争に巻き込まれそうになった時、上の教訓が彼の頭を支配する。だけどもう後に引けない。
そんな中マフィアのボスが彼を救い出す。そして不良グループは死ぬ。

人が言っている事の説得性を持つのは、事実としてそれが生じた時。
多くは教訓に気づかされた時、「時すでに遅しの状態」になっている事が多い。


多くの教訓、自分に必要な教訓はどのように人生に応用が出来るのか。
誰から何を得て、どう判断するか。それは自分次第。


さらに今回はラストシーンで新しい言葉を得た。

『自分でした選択が人生を決める。』

多くを学んだ少年がそれを悟る。

2013/09/16

書籍『こころ/夏目漱石』

精神的にすがる思いで一気に読んだ。
気がついたら明け方だった。

 「先生」が「私」に伝えたかった事は何なのだろう。 

生きること。
人間は正しく、真っ当に生きること。

 裏切り、憎しみ、悲しみ…、人が生きて行く上で避けたいもの。
でもそれらは生きて行く上で時として避けられないもの。

 避けられず悩み、苦しみ、自ら命を絶った「K」と「先生」。 

人生において予期せぬこと、まさかこんな事が自分に降りかかってくるとは、こんなにも壮絶な苦しみが世の中に存在したのか。
経験して初めて知るおぞましさ、後悔。 

できればそれらを避けて一生を終えたい。
出会い、別れも何とか年輪を重ねた経験から想像できる範疇の喜び、悲しみで留めていたい。

ただ、人の一生は予期できぬこと、自らの過去の経験から何かを得てもその多くは未来に応用は効かぬもの。

 でも、他人の一生から何かしらのヒントは得られるもの。

だから我々は学ぶ。人の中で生きる。 
きっと「先生」は「私」に対して、その「生きるためのヒント」を与えてくれたのだと思う。

 「私」はそのヒントを受けて、また、生きていかなければならない。

映画『エビータ』

強く、美しく、逞しい女性。
エビータ。 

第二次世界大戦前後、アルゼンチンのペロン大統領のファーストレディーとして、壮絶な33年間の生を全うした女性の物語。

エビータ役はマドンナ。 

貧しい家庭から成り上がり、女優、ラジオキャスター、そして大統領婦人へ。
ファーストレディーのポジションだけに留まらず、美貌とメディアでの認知度を携えて自らも政治に多大な影響を与える。
 特に農民等貧困層から圧倒的な支持を受け、夫であるペロン大統領を支え続ける。 


よく「男の成功の半分はその伴侶に依る」、と言われるがこのペロン大統領の場合はエビータが大半を占めていたのかと思う。

彼が選挙活動でくじけそうになった時、何度か「パラグアイにでも亡命しようか」と切り出す。 エビータはその度、「自らはどんな境遇でもこれまで敗けた事は一度もなかった。弱音を吐かないで。」と檄を飛ばす。
檄を飛ばすだけでなく、自らが表舞台に立って民衆の大統領への指示を獲得しようと行動する。


 彼女の行動で、大統領はエビータへの信頼を愛情と共に厚くする。


行動でしか信頼を獲得することは出来ない。

時として、信頼は愛情以上に大切なこと。


 とても良い映画だった。